
皆既月食
今宵の空は暗い。気を付けなさい、と町を出る前にそう老婆に言われた。どうしてですか?と尋ねれば、太陽が沈む西を指して薄らと浮かんでいる丸くて白い月を見つけた。
太陽は地平線に沈む、群青色の夜が覆いかぶさっている。それでも太陽は広大な大地を橙色に染めていた。
美しく滲み消えていく温かみの中に広がるのは静寂だ。生命という明るさを静かに包み込むその闇は深く、冷たい。
「今夜は月が消える日だよ。町の占い師が暗闇に包まれる世界は何が起こるかわからないから旅の人に気を付けるようにと」
老婆はそう言って黄色い小さな花を渡してきた。
「これは?」
彼はその花を受け取り、首を傾げた。
枝先には小さな五つの黄色い花弁が咲いている。
「魔除けの花だよ、この花が今夜のあなたを守ってくれるだろう」
さらにこの花を擦り潰すと紫色になり、止血剤としても使えるとのことだった。日中にしか咲かず、一日だけしか咲かない個体もあるようだ。鼻のことについてはあまり詳しくないが、彼は老婆に向かってありがとう、と明朗な声で答え背中を向けて歩き出した。
大きなリュックを背負い直し、もらった花を大事そうに手に持ったまま森の中へと向かう。町で泊まっていけばいいものを、彼は一日でも早くアーモロートに帰りたいという気持ちが足を急かしていた。
久々の帰還だ。何年ぶりだろうか、と指を折って数えながら軽快に足を躍らせる。
いつの間にか完全に太陽が沈んでしまい、周りは真っ暗だ。遠くからフクロウの鳴き声が聞こえ、風が木々を揺らす。
アゼムは振り返り様に夜空を見上げると気のせいか星の輝きが少ない気がした。
月が消える日、と言っていたのが気になってそのまま木々の間から見える丸い月を眺めていると、それはゆっくりと起き始めた。
「月が、欠けていく」
ぽつりと言葉を落としてアゼムはその世にも奇妙な光景に魅入られるように、瞳の中に消えていく月を映していた。
丸かった月がゆっくりとゆっくりと同じ丸い丸いものを横から重ねられていき、なくなるのかと思いきやそれは次第に赤銅色の月へと変貌していったのだ。
アゼムは、これは驚いた、とぽかんと口を開けたままその月を見上げた。
その赤く染まった月はどこか不気味なのだが、普段の満月よりとても濃い丸を夜闇に浮かべている。
金色の満月は美しいが、その奇妙な赤も妖艶で美しかった。赤に溶けていくその月はもの悲しくもあり、何か前兆のような不安と焦燥を抱きたくなるようなそんな姿だ。
ざわざわと風が落ち着かないように凪いでいて、ふと黄色い花を握りしめる。
最近は世界のどこかで何かしらの騒動が起きている。おかしな自然現象に獣が凶暴化し、人を襲っている。何かがおかしいと思ってもその根源はわからなかった。
それでもアゼムは問題を一つ一つ出来ることから解決し、人を助ける。困っている人がいるのならば足と止めて話を聞いた。
息を吐けば白く、溶け込んでいく。
暗くて寒い森の中で一人なのは慣れっこだが、今はなんだかとても薄気味悪く、寂しく不安になって、早く会いたいと切に願ってしまい、アゼムはぶるりと身を震わせて唇をきつく結った。
瞳の中に赤い月を据えながら、アゼムはアーモロートにいる友の顔を思い浮かべた。
このまま歩いて行けば明日の明け方には到着するだろう。そうしたら真っ先に逢いに行こうと決める。きっと朝から騒がしい、と彼は相変わらず眉を顰めて怒るだろう。もう一人の友は笑っておかえりと言って抱き締めてくれるに違いない。
それを思い浮かべていれば、冷えた身体が温かくなってくる。
赤かった月はだんだんと色を戻していく。
静かすぎる空気が透明で澄んだものへと変わった気がした。それは月が欠ける前のいつもの変わらない空気だ。揺れる木の音にだって不気味さはない。
「ただの気のせいさ、何も起こらない」
そう言葉を声という音にした。
そうだ、ただ月が一瞬消えて赤くなっただけで何も起こるわけはない、ともう一度口にする。
それは願いのように。
この世界が平和であるように。
そのために自分はこの世界を走っているのだからと。
自分を照らす金色の月の明かりは優しく、帰路へと繋ぐ。
