
手を伸ばす
手を伸ばせばいつでもそこにその人はいた。
当たり前のようにいて当たり前のように笑った。
それはいつだって手を伸ばせば届いたのだ。
明日の幸せ、その次の日の幸せ。
手を伸ばせば届かなくなったのはいつからだろうか。
それはもう遥か遠い昔の記憶と夢だ。
もう何万という時間を渡り歩き、夢を見る。その夢はいつだって苦しみから解き放ってくれるようにあの懐かしい日々の投影だ。
忘れてはならないよう、自分は背負った願いを叶えるために前へとどんな手を使っても進むのだ。
それが真なる人の真なる願いだから─。
ラケティカ大森林の大きな樹木たちは天から注ぐ真っ白な光を遮り、地上に影を落とす。
ここはよい昼寝の場所だと太い木の枝の上で横になっているエメトセルクはぼやく。
闇の化身でもあるアシエンにとって注ぐ光は目障りでしかない。この世界はどこに行っても明るくため息ばかりがでる。勇唯一この森は地上を歩いていても影を落とし、気分はそこまで凹まない。
だから好んで湿気も多くても気にすることなく、彼はここにいた。
目を瞑り安定したリズムの呼吸を胸で繰り返し、足を組む。両手は腹の辺りで緩く握り、背を太い樹木に預けてとてもリラックスしていた。
ふとその時、周りで人の気配がした。
誰だと思わなくてもそれが誰なのか、エメトセルクには視えている。
自分が寝っ転がっている枝は崖からすぐに飛び移ることが出来る。草むらをかき分けて、その人はエメトセルクを見つけると起こさないようにそっと(まぁそう言っても十分に木々を揺らしていたが)枝へと足を乗せた。
ここで目を覚ますのも悪くないが、こいつは一体どうするだろうかと観察してやろうと内心でほくそ笑む。
いつもなら黒い鎧を着ているのが、金属音がしないため軽装だろう。どうせまた草刈りが石でも堀りに来たのだろう。
エメトセルクはじっ、とそれが近づいてくるのを感じて待った。
その人はエメトセルクを見下ろして影を落とすと少し考えてしゃがむと、
「アシエンも寝るんだな」
と、不思議そうに呟いた。
何を言うかと思ったらそんなことか、とぴくりと片眉が揺れてしまった。
まじまじと寝ている男を見やり、彼は手を肩へと伸ばした。
その時だった。
エメトセルクはその手を強く掴んで捻ると上半身を起こし、突然のことに一瞬怯んだ彼をねじ伏せてしまった。
どさりと大きな音を立てながら背中を枝に打ち付けると、彼は「うわっ」と声を上げる。
打った背中がじんじんと痛くて顔を顰め、衝動で揺れた樹から葉が何枚を振り落ちていくのが青い瞳の中で映っていた。
「アシエンが寝ては悪いか?英雄殿」
にやりと笑ってエメトセルクはその青年を見下す。
「起きていたのなら言ってくれよ」
びっくりした、と息を吐いて彼は胸を撫で下ろし、エメトセルクを見上げた。
というか案外にエメトセルクという男に体術がることに驚いてしまった。気怠い足取りで背中も丸くなり、いつも面倒そうに動かないイメージだ。こんな風に自分が組み伏せられるとは思ってもみなかった、という動揺も兼ねた気のゆるみだったかもしれない。
馬乗りになられたというのにこの男はただそれだけ言う。
このまま突き落とすことだって可能だったというのに、この男はそうした危機を感じないのだろうか。
「お前の歩く音など何メートル先からでも聞こえるぞ、またこんなところでフラフラとして罪喰い討伐はどうした」
さっさと目的のことをしろ、と舌打ち交じりで言われると青年は眉を下げて笑う。
「あんたに言われなくたってわかってるって。あんただってこんなところで昼寝とはいい御身分だな」
「私はアシエン・エメトセルクだぞ?それに戦力は充てにするなと言っただろう。それにお前は危機意識が足りないようだな」
こうして敵であるアシエンに押し倒されているというのに吐く言葉はそれか、と忌々しくなる。
エメトセルクは一房の白い前髪を掻き上げてため息を零す。
「私がここでお前の首を折ってもいいんだぞ?手を伸ばせばすぐにでも、出来る」
エメトセルクは低く唸るようにそう告げて、彼の晒されたままの喉元へと手を当てた。
この首を今から折ることも締めることも、なんだったら飛ばせることも出来るのだ。
触れた手袋の感触に彼は唾を下した。
「あんたが本当にそうするなら言う前にやってるだろ?」
だからそんな風に脅したつもりで顔色を愉しもうなんて趣味が悪いぞ、と肩を竦めながら笑う。
ああ、この男のそうしたところが嫌いなんだと嫌気がさしてきてエメトセルクはその手を退け、身体を起こした。
「本っ当に嫌になるな、お前」
「それはどうも。あんたに好かれるよりはましさ」
彼も身体を起こし、皮肉れた言葉を掛ける。
エメトセルクはフン、と鼻で笑うと胡坐を掻いて肩肘を付き、指先を彼の顔へと向けた。
手を伸ばせば殺せたのだ。
いっそのことそうしてしまった方が何よりも早いことだったかもしれない。
しかし別の道もあるかもしれない、と自ら手を差し出したのはエメトセルクの方だった。
「お前はいつだって手を伸ばせば手に入るからな。だが我々はどうだ?お前たちが邪魔ばかりするから手に入らない」
この英雄にはあとちょっとというところでいつもひっくり返されてしまう。
失ったものは大きい。
もうこの宿願を成し遂げるのは自分しかいない。失敗は許されない、認められない。
暗き冥界から同胞たちを掬い上げるのはもう私しかいない。
「本当に忌々しい男だ」
指先でぐるりと彼の胸に向かって円を描き、手のひらを上にしてゆっくりと小指を折り曲げて手の中の空気を握りつぶした。そう、それはまるで男の心臓を抉り出すように。
窪んだ金色の瞳に宿る炎は鈍く光り、憎悪をぶつける。
それは憎しみだったとしても、ぞっとするほどに真っ直ぐだった。
「そんなことないさ、俺はいつだって誰かに助けてもらっている。手を伸ばしてもらっているのは俺の方さ」
しかしどれだけエメトセルクが嫌味を吐こうが彼は食って掛かることはしなかった。
「あんただってそうだ。あんたからの申し出がなかったらこんな時間はなかったんだし」
エメトセルクから協力しようと言われなければこうした時間もなく、ただの敵としての相手でしかない。
理解しようだなんて思わないさ、と彼は明朗に笑った。
どうして笑えるのか、エメトセルクにはわからない。
しかし彼はそういう人であったと一番知っているのはエメトセルクだった。
当たり前のように隣にいて、手を伸ばせばそこにいた。
この男も残念ながら魂が同じなら一緒なのだ。
ああ、厭だ厭だ。さっさと目的を果たし、愛した世界を取り戻さねばならないというのに。
この男はなりそこないなのだ。魂は一緒でも欠けているのは違いない。それを同じ魂として視てしまう己にも嫌気がさしてくるというもの。
ああ、厭だ。
そう、小さく唸り陰気なため息を零す。
「フン、ならば私から差し出された手はありがたく握っておくことを覚えておけよ」
エメトセルクはそう言うと立ち上がり、座ったままの彼へと手を伸ばした。
