
余る時間は眠りを誘う
「おい、いつまでここにいるつもりなんだ」
ようやく口を開いて唸ったのはこの部屋の主だ。時計の針はもうてっぺんを回ってしまっている。
窓の外は暗く、今日は月の明かりもなかった。
横長のデスクには綺麗に本を積み上げて、一枚一枚紙に丁寧な文字をペン先で沁み込ませていく。ようやく最後の一枚が終わると、ふう、重い溜息を吐いて椅子に凭れる。
それから眉間を指先で摘まんで、薄っすらと目を開けた。
部屋の主である長身白髪の男は勝手にベッドで転がっている青年を叱るように睨み、もう一度さきほど口にした台詞を舌に乗せた。
整っていたはずのベッドは一人で占領している彼によってもうしわくちゃだ。
「アゼム」
返事がないことに苛立って、名前を呼ぶと席を立つ。
ベッドの方へと歩いていき仰向けになっている青年を覗き込むとその目は静かに閉じられていた。頭の横には読みかけの本だ。部屋の本棚から知らない間に拝借したのだろう。
それを暇つぶしにでも読んでいたが文字を眺めているうちに眠くなってきてしまったらしい。あまり根詰めて読み物をするタイプではない。
彼、エメトセルクは本が好きだ。
特に物語を綴るものを好んで読んだ。意外だね、と言われることもあったが昔は執筆をしてみたいと思うほどに、頭の中にあったもしもの物語を文字にしてみることが夢だった。
だからだろうか、アゼムが世界を歩いて来る話を聞くことがとても楽しみになっていた。
空飛ぶ島、深海に沈む宝石と神殿、巨大な遺跡の秘密。
それはどれも魅惑的な話だ。それもまるでこの本棚にありそうな空想の物語に聞こえる。
ぎしりとベッドに腰をゆっくり下ろして眠っているアゼムを見下ろすと、彼の身体が身じろいだ。
「……あれ、」
エメトセルクの影が自分へと落ちてきたことで、アゼムはようやくひっついていた瞼を擦りながら開ける。
するとそこにはむっすりと眉を顰めたエメトセルクがぼんやりと映り込んできた。
小さなあくびをして、エメトセルク、と掠れた声で呼んだ。
「眠いならちゃんと自分の部屋で寝ろ」
お前は子供か、と叱咤するような呆れた声でアゼムの腕を掴んで上半身を起こしてやった。その身体はまだ眠いのか重く感じる。
「ええ、俺はここで寝たい」
アゼムはその腕を掴み返すともう一度ベッドへと潜り込もうとした。
「おい、勝手に寝るな。ここは私の部屋だぞ」
この男は何度言っても自分の部屋で寝ない。
埃だらけで片付けをしないその部屋は部屋としての機能を果たしていないのだ。
なぜかと言えば旅をすることがアゼムという人の生き方だ。
何年も空き家にすることなど当たり前。その部屋をわざわざ片付けたくない、と彼はヘラヘラと笑って言う。
そしてどこで寝るのかと言えば人の部屋で、だ。
一人で寝るのは飽きているから人と寝る方がいい、という。
おかしな理由だ、と言っても本当のことだから仕方ないと他人事のように肩を竦めて笑った。人恋しい、というのだろうか。
寝相悪く人のベッドを占領して寝ている奴がいないことが、エメトセルクもアゼムがいない間はなんだか寂しい、と思うこともある。決して口にはしないが。
「じゃあ俺が誰のベッドに潜り込んでも君はいいのかい?」
終いにはそう言って脅す。なんとも性格が悪い男だ。
そんなこと自分がさせるわけがないとわかって言っているのだ。
エメトセルクは腕を組んで金色の瞳を一段と濃く滲ませると唇を結ぶ。アゼムはちらり、とデスクの方を見る。
「仕事終わったの?」
さっきまでは木製の大きな椅子に座っていた黒い背中は黙々と仕事をこなしていたが、向かっていたその机の上は綺麗に片付いていた。
「君が仕事を終わるまで起きていようと思ったんだけどな」
また一つあくびをして背筋を伸ばす。
エメトセルクはベッドを軋ませて身体を屈めると、アゼムの瞳を真上から捉える。
「眠いなら寝ればいい、それだけだ」
「けど眠ってしまうと勿体ない、君との時間が少なくなる」
伸ばした指先でエメトセルクの肩口にうねる白髪の髪を絡め、首から頬へと摩った。その頬はすこしひんやりと冷えていた。
微睡む思考の中でその指先に触れる熱だけが、現の安堵だ。
起きてもっとエメトセルクと話がしたい、と思っても瞼はまた重く沈んでいくし頭の中はどんどん黒い靄を広げて全てを隠していく。
寝たくない、もっとエメトセルクと、と思ってもこの襲い掛かる睡魔には勝てそうにない。
彼といると無性に眠たくなるのはなぜなのか。
鼻の奥をすん、と吸えばエメトセルクの汗のような、熱の籠った匂いが少しだけした。
「エメトセルク」
舌を縺れさせて名前を呼べば、なんだとぶっきらぼうに返される。けれどそこに宿る瞳の色はとても優しくて、今夜の夜にいない満月だった。
「今夜もここで寝てもいい?」
だんだんと近づく距離の中、吐息を交わし、そうアゼムはエメトセルクにお願いをする。
それをだめだと言えるわけがない。
エメトセルクは短く息を吐いて、
「好きにしろ」
と、呆れた。どっちにしろ何を言ってもアゼムはここで睡眠を貪る以外答えはないだろう。
結局のところ、いつもアゼムの好きにさせている。
アゼムはその言葉を聞いて、まつ毛を小さく震わせながらまた眠りへと落ちていく。真っ暗だけど心音は穏やかで、おやすみ、という心地よい響きが耳に残る。
どうして一人で眠れないのか。
それはここが帰ってくる場所だというゆりかごだからだろう。
いつでも一人でどこにでもいた。それが突然、一人じゃなくなった。
あの日、あの時に出会った時から一人じゃなくなってしまったのだ。
