
あなたの心臓には名前を書いておいて
「エメトセルク、エメトセルク、エ・メ・ト・セ・ル・ク……」
何やらぶつぶつと独り言を言っている赤い仮面を付けた青年が広い廊下を歩いている。
指先で顎の辺りを摩りながらそのエメトセルク、という名前を覚えるように何度も何度も呟いているのは十四の座に就くアゼムだ。
彼はなぜかその名を繰り返し、大理石の廊下をまっすぐ歩いていき議事堂の扉を開けてアーモロートの外へ出る。
夕暮れが近いのか空はすっかり群青と橙が交じり雲一つない景色を美しい色に染め上げていた。
「アゼム様、お疲れさまです」
通りがかりの人にそう声を掛けられ、彼は手を振ったがその表情はよく見えなくても心ここにあらず、だった。
彼が一体どうしてそんなに集中してエメトセルクを連呼しているかはこの後すぐにわかる。
「エメト、うあっ」
セルク、と最後まで言う前に階段を一段踏み外してしまい、思わず声を上げてしまった。
ずるっと足が階段の角から滑るそのまま硬い石へと尻をぶつけてしまう、と思った瞬間にその腕が力強く掴まれる。
体勢は崩れてしまったがその掴んでくれた腕のおかげで尻もちをつくことを免れた。
しかしそのせいで被っていた仮面が目元から外れてしまい、胸元で揺れる。
「ちゃんと前を見て歩け、馬鹿者」
何やってるんだ、と背後で転びそうになったアゼムを支えてくれた男がため息混じりの呆れた声で言った。
「ハーデス!あっ」
その聞き覚えのある声にアゼムはぱっと蒼白になりそうだった顔色を明るくし、振り返り名前を呼んだ。が、そのあとすぐにまた顔色をさっと青くして眉尻を下げ、背の高い白髪の青年エメトセルクを見上げる。
「あーあ……」
アゼムはまるでこの世の終わりだ、とでも言いたそうな懺悔し後悔に唸る声を吐き出した。
「なんだ、助けてもらったというのに礼もなしか」
エメトセルクは様子のおかしなアゼムを訝し気にみて眉を顰めた。別に礼が欲しくて腕を掴んだわけではないが、自分とわかった瞬間に何やら不満そうな、残念そうな顔をされると気分はよくない。
「いや!そうじゃないんだ!ありがとう、エメトセルク!」
アゼムはむっと唇を一本に結んだ不機嫌そうなエメトセルクを見上げ、慌ててそう捲し立てる。その最後の名前を妙に協調して。
「なんだお前、どうかしたのか」
様子がおかしいぞ、とエメトセルクが腕を組んで睨めばアゼムはううっ、と太めの眉を下げて唸り俯いた。
「君の名前はエメトセルクだろ?だからもう君のことを間違えて真なる名前で呼ばないように気を付けていたんだ。それなのに俺、うっかりハーデスって呼んじゃっただろ」
それが失態だ、とアゼムは焦げ茶色の頭のてっぺんをエメトセルクに見せながら告げる。
先日まではこの白髪の青年の名はハーデスという名前の一市民だった。
今では星を管理する組織、十四人委員会のエメトセルクの座を継いだ者だ。その座に就けば皆、名前を座で呼ぶこととなる。それは非常に名誉あることで、座で呼ばれることを誇りに思うことだろう。
彼もまたアゼムと同様に十四人委員会を受け継ぐ者になったのだ。
それならばこれからはハーデス、ではなくエメトセルクと呼ぶのが礼儀であり、尊厳であるとアゼムは考えた。
しかし自分のことだ、ハーデスと呼び慣れた名をすぐに変えられる自信はなかった。反対にエメトセルクはすぐに自分をアゼムと呼ぶようになった。さすがそうした意識は人一倍、自分の何倍ももっていることとなる。
いつエメトセルクに遭遇してもいいように、ずっと独り言でエメトセルクの名を復唱していたということだ。
その成果はどうだ、と言われればとても残念な結果に終わってしまった。
「そんなことで落ち込むのか、お前は」
何をそんなショックを受けているのかと思えばそんなことか、と仮面の奥の瞳が呆れる。
「悪いかよ、落ち込んでさ」
エメトセルクはそんなこと、と言うが自分にとっては大切なことだった。
「君は偉大なる冥界の座に就くエメトセルクだ。君は俺をアゼムと呼んでくれるように君をエメトセルクとちゃんと呼びたかっただけなのに、ああ本当に不注意だよな俺って」
頭を抱えてしゃがみ込み、今にも頭から煙でも吐き出しそうなアゼムをエメトセルクはぽかんと口を開けて眺めてしまった。
たったそれだけで勝手に気落ちする馬鹿はきっとこの馬鹿だけだろう。
まぁ確かに体裁を気にする己としてはエメトセルクの座を継いだのならば、真なる名前で呼ばれることをよしとはしない。
エメトセルクはフム、と一瞬考えるように首を傾げて、随分と懐かしい言葉を唇から風に乗せた。
その言葉にアゼムは青い目を丸めて顔を上げる。自分ですらも忘れてしまった響きだ。にやりと口元を緩め、しゃがみ込んだままの男を見下ろした。
「これで満足か?アゼム」
エメトセルクの声に乗って耳に届いたその名は自分のものだ。彼はきっと落ち込む自分を見て、仕方なく告げたのだろう。
このエメトセルクという男はとんでもない底なしの魔力を持ち、仕事一筋で冷静沈着ではあるが、案外誰よりも面倒見の良い好青年なのだ。
「まぁこの一回ぐらいは見逃してやるが次からはちゃんとエメトセルクと呼べ」
どうせアゼムのことだ、しばらくはついうっかりハーデスと呼ぶのだろう。そんなことは簡単に想像出来て、エメトセルクは肩を竦めた。
アゼムはすっくと膝を伸ばして立ち上がると、嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ君と二人きりの時はハーデスと呼ぼう」
「どこでもだ、アゼム」
人の話をちゃんと聞いていたのかとエメトセルクは沈みゆく空の色を見ながらぼやく。
「それにそんな器用なことできないだろお前」
「失礼だな、俺は君より不器用ではないさ」
「それはお前だ、お前」
「俺のことを信頼してよ、エメトセルク」
アゼムはエメトセルクの腕を掴み、「一緒に夕飯を食べに行こう」と、返事も待たずに階段を急かすように下りる。
この男アゼムといると自分の調子が狂ってしまう。
ノーとは言えなくさせる、そんな空気を作るのが上手い。だからいつも厭だ、と言っても結局はイエスになる。
しかしだからと言って嫌々なのではない。いつでもなんだって真剣に向き合って時には大きなミスもする。まっすぐに伸びた青い瞳はどこまでも濁ることなく、透き通った気持ちの良い大空のようだった。
お前が笑っていてくれるならそれでいい。隣にいてその双眸で私を見てくれるのであればそれでいい。
アゼムとは自分をそうさせる男なのだ。
「私も二人きりの時は呼んでやろうか?」
そう、並んで歩くアゼムに告げると彼は急に顔を赤くして、「嫌だ」と声を漏らす。
「君に今更名前を呼ばれるのは恥ずかしい!」
俺はアゼムだからアゼムのままがいい、という彼にエメトセルクは首を傾げて眉を顰めた。なぜ自分はよくてアゼムはだめなのだと不満そうに。
「不公平だぞ、それは」
「俺はいいの!」
「どういうわがままだ、まったく」
まぁ別に構わないが、と思いながらいつか意地悪してやるかと微笑み、走り出すアゼムの後ろを見つめながらゆっくりと歩く。
その心臓に刻まれた名前はずっと忘れないだろう。どんな形になっても。
陽が沈みアーモロートの街中に優しい明かりが付き始める。
こうしてまた愛しい一日が流れ、また明日がやってくる。
どうかまたその次の日もその次の日もこの隣にいる人が幸せであるようにと包み込むように、その明かりたちは彼らを照らしていた。
