
窒息しそうな抱擁
アーモロートは今日も美しい。
早足で歩いていれば青い空から注ぐ太陽は眩しく白い石畳の道を照らし、緑豊かな木々たちが心地よさそうに揺れている。
ベンチに座り雑談をする者、カフェテラスで談笑する者。
大きな荷物カバンを背負ったアゼムはくんくんと鼻を動かして久しぶりのアーモロートに漂う懐かしい香りを身体に取り入れた。一度この街を行ってきますと離れてしまうと長くて何年も帰らないことも多い。今回は比較的早くに帰ってこれた方だろう。
「おやアゼム様、今帰られたところですか?」
前方から歩いてきた市民がアゼムに声を掛ける。
アゼムは手のひらを上げて、ただいま、と挨拶をすると何かを急に思い出したように仮面の奥の目を光らせた。
するとアゼムは一歩踏み込んで声を掛けてきた者に両手を差し出して突然抱き付いたのだ!
「ア、アゼム様⁉」
両脇をホールドされて驚いた市民は素っ頓狂な声を上げて驚いた。それもそうだろう、アゼムと親しいわけでもないのに突然抱き付かれて驚かないわけがない。
それも公衆の面前だ。
何が起こったのかと考える間もなく、アゼムはすっと自分から離れるとなぜか首を傾げて、
「違うなぁ」
と、小さく呟く。
抱き付かれた本人もそうだが、それを目撃してしまった者たちも一体なんなんだと口を半開きにしている。
アゼムは不服そうに口を結んでまた唸ると、くるりと身体を反転させて別の人と目が合うとその人へ向かってまた抱き付いた。突然アゼムがそうして周りの人に対してハグをしていく、という珍事件が帰ってきた直後に発生したことは瞬く間にエメトセルクの耳に入ることとなった。
「アゼムが何をしているだって?」
最初は何を言っているのか理解できなかったがその情報をいち早く持ち込んできたのは腐れ縁のヒュトロダエウスだ。
ヒュトロダエウスは今にも吹き出して笑いそうな顔をしてエメトセルクにもう一度同じことを告げる。
「だから、アゼムがこの街に帰ってきてから色んな人に抱き付いているって話さ!もう街中が大混乱だよ、早くキミが行ってあげた方がいいんじゃない?」
くすくすと口元が笑うとラベンダー色の三つ編みの先が揺れるのをエメトセルクの金色の瞳がじろりと細めで睨む。
「なんで私が」
「だっていいの?このままだとアーモロートの全市民に抱き付く未来がワタシには見えるよ、うんうん」
エメトセルクは大きく聞こえるようなため息を吐いて頬杖を突く。
「だからってどうして私が行かねばならん」
好きにさせておけ、とでも言いたげな顔にヒュトロダエウスは素直じゃないなぁと聞こえないように笑う。
「どうせ旅先で変なキノコでも食べたんだろうさ」
「だったらなおさらキミが医務院に連れていってあげた方がいいんじゃないかな」
「だから、なんで、私なんだ」
こんな会話を続けたところでヒュトロダエウスは自分がアゼムのところに行くまで居座る気だろう。いつだってこの男も厄介なことを連れてくるというものだから悩みの種は尽きない。
確かに帰ってきた早々にこんな珍事件を起こされては十四人委員会の威厳というものが失われてしまう。
(あの馬鹿め、帰ってきて早々何をしているんだ)
本当に拾い食いでもしておかしくなったのであれば被害が広がらないうちにエメロロアルスに診てもらった方が得策だろう。それをなぜ私がやらなくてはならないのか、という疑問はもはや愚問だ。
ラハブレアですらアゼムが面倒事を起こせば自分が呼ばれるのだから。
アゼムのことならエメトセルクに聞けばいいし任せておけばいい。
まったくいつからそうなってしまったのか、と眉間の皺がそろそろ増えてもおかしくない。いつだって仕方ない、と椅子から立ち上がりヒュトロダエウスと肩を並べようとしたちょうどその時だ。
エメトセルクの執務室の扉が乱暴に開いたのは。
息を切らして飛び込んで来る者などこの世にたった一人だ。
「ワァ!アゼムじゃないか、いいところに来たね!」
ヒュトロダエウスはその突然の来訪に驚いた声を出していたが、エメトセルクにはわかっている。
こいつはアゼムがここに訪ねてくることを知っていた、視えていたことを。
そんな白々しい声を出したところで知っていたんだろうと怒ってやりたかったが、そんなことはもうどうでも良かった。
アゼムはまずヒュトロダエウスを見つけると、
「ただいま、ヒュトロダエウス!」
と、元気な声で言うとやはり彼に思いっきり抱き付いたのだ。
ヒュトロダウエウスは両手を上げてホールドしてくるアゼムを抱き返して、おかえりと優しい声で出迎えた。
アゼムはヒュトロダエウスに帰宅の抱擁をするのは珍しくもない。いつのも光景でエメトセルクには違和感などなかったが、これをなぜ今回手あたり次第にやったのかは首を傾げる案件だった。
とんとん、と背中を叩かれるとアゼムはヒュトロダエウスの胸から顔を離してその後ろに見えるエメトセルクに目を輝かせた。
「お前はまた仮面を外して──」
すっかり仮面を外してしまっているアゼムに対してエメトセルクの開口一言は小言だった。この部屋には親しい友人であるお互いしかいなかったため、ヒュトロダエウスもエメトセルクも仮面を外していたが、アゼムは外からここまで市内を通ってきているのだ。
常識が通じる相手ではないがまったく恥も知らないで、と飽きれていればアゼムはすぐさまにエメトセルクへと駆け寄った。
「エメトセルク!」
快活な声で呼ばれると勢いのまま彼へヒュトロダエウスと同じように抱き付いた。
いや飛び付いた、と言う方が正しい表現かもしれない。
思わず一歩引いてしまったがきちんとアゼムの抱擁を受け止めるとエメトセルクはそれを見てにやにや笑うヒュトロダエウスをアゼムの背中越しに睨みつけてやる。
「ただいま、エメトセルク!」
そう言いながらアゼムはエメトセルクに回した腕に少し力を入れた。
ぎゅっ、と密着する身体に思わず鼻腔が刺激されるのは汗の匂いと燦々とした太陽を浴びてきた香りだ。久しぶりのアゼムから漂う香りに思わず珍事件のことを忘れそうになるが、エメトセルクはアゼムの肩をぽんぽんと叩いて、離せと促す。
「……アゼム?」
しかしアゼムはエメトセルクに抱き付いたまま離れようとしない。
いつもならすぐに顔を上げてその妙に嬉しそうで懐いた動物のように見上げてくるのにそうしない。
ヒュトロダウエウスと目が合うと、彼も肩を竦めていた。
「……やっぱりだ」
アゼムはエメトセルクの胸に顔を埋めたまま何かに納得したような声でそう呟く。
未だに離そうとしないアゼムに対してエメトセルクはいい加減ヒュトロダエウスの前というのもあって恥ずかしくもなると力ずくで引き剥がす。
「何がやっぱりなんだ、お前帰って来て早々に問題を起こすな」
エメトセルクは唸るようにしてそう言うとアゼムは顔を上げて、何が?と自分がしてきたことへの疑問を感じない様子だった。それに対してヒュトロダエウスはとうとう堪えていた笑いを吹き出してしまう。
「何がってキミ帰ってきてからなぜか道行く人に抱き付く、ていう事件を起こしてるって噂になってんだよ。キミは本当に話題が絶えないなぁ」
最高の友人だよ、とヒュトロダエウスはケラケラと笑っているがエメトセルクには笑顔はない。
「お前のその突然の行動に振り回される身にもなってみろ」
エメトセルクはアゼムに対して大きなため息を吐く。
彼に振り回されるのは今に始まったことではないが、念のためどうしてそんなことをしたのか、を聞くとする。
その奇妙な行動に答えがなければこの後のことが決まるというものだ。
アゼムは、あっ、とようやく気が付いたのか少しばつの悪そうな顔をしたがすぐにいつのもように明朗に笑った。
「その、ほら、やっぱり違うんだなって」
「何がだ」
はぐらかすような言い方にエメトセルクの片方の眉尻が上がる。
「えーっと、言語化するのが難しいんだけどさ」
「お前はもう立派な大人だろう、さっさと言い訳を説明してみせろ」
いつだってとんでもないことを見て聞いてきたのだ、今回の抱擁珍事件についてどんなことを言われようが呆れる準備は出来ている。
そうエメトセルクは腕を組みながらアゼムを見下ろした。
「……ほら、君とするのと他の人とするのでは違うなって」
アゼムは頬を指先で掻きながらどこか恥ずかしそうで満足そうな顔で言ったが、それが何を指しているのかすぐにはわからなかった。
後ろにいるヒュトロダエウスは何か閃いたが、また口元が笑い始めるのをなんとか抑えようと手のひらで口を覆うが目元は完全に笑っている。
(エメトセルクってアゼムもそうだけど鈍感すぎでしょ)
なんてことを心の中で思いながら。
「……何が違うんだ」
エメトセルクにはそう言われてもさっぱりわからないのか、そう聞き返すとアゼムはエメトセルクの胸を指差した。
「旅先で教えてもらったんだ。そこは抱擁するのが挨拶みたいなものでね、みんなどんな時でもそうしていたんだよ。それでそこの人が教えてくれたんだ」
「何をだ」
「特別な人とハグをすると違うって」
アゼムは今回の旅先で出会った人たちの話をすることが大好きだった。色んな街、人がいて考え方も生活も違う。その中で出会った街では抱擁が生活の一片に刻まれており、どんな時だって抱擁し合うんだと教えてもらった。
その中でも特別な抱擁があると。
それが何かと聞けば、その人は笑って、
「あんたの大切な人とハグしてみな。そうしたらわかるよ」
と、説明されたという。
それがどんな【特別】なのかがわからなくて、アゼムは帰ってきた時にアーモロートの人たちに実践したのだという。
しかしその【特別】が、わからなくて次から次へとハグを繰り返したのが今回の珍事件の真相だったわけだ。
「特別?」
エメトセルクは同じ言葉を聞き返すと、アゼムは頷いた。
それはもう思考の停止と言っていいだろう。深層ではそれが何かを理解しているが表面では追いついてきていない。
こいつは一体何を言い出したのだ、またわけのわからないことを、と。
「うん、君とハグをすると全身が熱くなって心臓がうるさくなるんだよ。まるで花火のようにぱちぱちって、火花が散るみたいな」
そこまで言うと我慢していたヒュトロダエウスが声に出して笑った。
「ほんとキミって最高の友人だよアゼム!」
それは恋人だからだよ、と声に出したかったがもう一人顔を赤らめている友人を見てさすがに口を噤んでおいた。
何せ二人はそういう仲だというのに今更、ということに免疫がないのだ。
だからアゼムも何が違うのか改めて知ってしまったしエメトセルクは改めて、アゼムの【特別】ということに思考停止している。
これはなかなかよいものが見れてしまった、とヒュトロダエウスは一人満足する。
「ワタシは仕事に戻るけど、ちゃんとみんなに説明しておくね」
「おい、ヒュトロ──!」
アゼムのこの珍事件の答えはちゃんと説明しておくから、と言ってヒュトロダエウスは笑いながら開けっ放しの扉から出て行ってしまう。
あいつのことだ、変なことにならなければいいがと不安が残ったが仮にも創造物管理局長だ、おかしなことはしないだろう。
「まったく、どいつもこいつも」
厄介なことばかり押し付ける、と嘆息もしたくなる。
「君が言語化しろ、て言ったんだろ。俺は悪くない」
アゼムはそう言ってエメトセルクの胸を小突いた。
エメトセルクはもう一つ、ため息を吐いてアゼムの跳ねる毛を撫でて青い瞳を見つめる。今度は何をやらかしたんだと思えばそんなことを試していたとは馬鹿正直者に対していくつ心臓があっても足りなさそうだと感じる。
「そんなことをわざわざ体感して確認するな。最初にここにこればよかった話だろう」
そうしたらそんな騒動など起こすことなく自分一人だけで十分だっただろう、そう言うと腰を抱いてアゼムの抱擁とはまた違う包容力のある優しさで抱き寄せた。
心臓が高鳴って早くなる。
とくんとくんと、緊張した時のように。
それは自分の胸の音ではなくエメトセルクの心音だった。
彼も同じなのだ。抱擁した時の【特別】な温かみ。
他人には動かなかった心臓が今では血流を全身へと流し、全身でその人に対しての愛情を伝えている。
確かに最初からエメトセルクで試していればよかったことかもしれない、と周りの人を困らせてしまったことにアゼムは苦笑した。
今更と思うかもしれないが、当たり前にあることに気付けたことにアゼムは感謝したかった。
「……今度も君のところに帰ってくることができてよかった」
この温かみに包まれ沸き立つ喜びを噛みしめて、アゼムはエメトセルクの背中に手を伸ばした。
「おまえり、アゼム」
その優しい抱擁は二人だけの【特別】。
