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​朝に告ぐ

「おはよう!」
 そう声を掛けられたのは意外な人物だった。
 カピトル議事堂に向かう前の広い並木道をゆったりと歩いていればその人に声を掛けられたのだ。まだ朝日が昇り始めてすぐの時間で外には人がほとんど見当たらない。そんな朝靄もうっすらとある寒い朝に自分以外の人がいることに黒髪の青年ファダニエルは驚いて数秒固まってしまった。
「あれ?もしかして寝てるのかい?」
 立ったまま寝るとは器用だな、とそのもう一人の茶髪の青年は明朗に笑った。
 まるで太陽のように輝くその微笑みが印象的だ。きっとそれは自分だけではなく周りの者すべての人がそう言うだろう。それほどに彼は眩しい存在だった。
「あ、ああ、おはようアゼム」
 ファダニエルはようやくアゼムであることを認識すると瞬きを数度して挨拶をした。
「こんな早くに君と会うとは思わなくて驚いてしまった」
 近くの木の青葉の中から鳥の囀りが聞こえる。
 アゼムはにっと白い歯を見せると、「俺だって早起きぐらいするさ」と腕を組んで鼻を鳴らした。
「ファダニエル、君はいつも早いのかい?もう仕事を始めるのかい?それともこれからどこかで朝食かな?」
 早口でそう質問を重ねて言うとアゼムはぐいっと仮面を付けていない顔を近づけた。
 そういえばこんな早朝だと思って自分も仮面を外したままだったことをファダニエルも思い出す。 
 彼の瞳は青だ。
 澄んでいて雲一つない空のようでふいにエルピスの空を思い出す。
 スカイブルーの中に溶け込んで飛んで行く一羽の鳥もとても多くて美しかった。
 アゼムがもう一度、ファダニエルの前に手を振りながらおーい、と声を掛けた。
 また意識がどこかにいってしまっていたのかふわりと冷たい空気が肺に入ってきてまた目の前のアゼムに焦点を合わせる。
 彼は不思議そうにファダニエルを見て、
「大丈夫かい?」
 と、首を傾げた。
 ファダニエルは口端を歪めて、「すまない」と一言謝った。
「こんな時間から働こうとしているからだよ。まだ市民も起きていないのに」
 アゼムは白い息と欠伸を混ぜながら笑った。
「君もお疲れのようだし、今日はまず俺とモーニングをしてからってことでも誰も怒らないさ」
 そう言ってアゼムはまた嬉しそうに笑った。
 冷えた朝だというのに彼が笑うとここだけ温かくなる気がした。
「・・・・・・疲れているのだろうか」
 ふとファダニエルは自分でもわからない、と思いながらそう口にする。
 ぼう、としてしまうことが疲れているのか果たして何かを考えていて目の前のアゼムに気を取られるのか。
 何を考えているのかさえ自分でもわかっていない。
「最近眠れないことが多くて」
 そんな個人的な問題を彼に言ったところで何も解消されないというのに、つい口から零れてしまった。
「ああ、だからそんな風に目の下に隈を作っているんだね」
 睡眠は大事だよ、とアゼムは付け加える。
「人は眠らないと思考が鈍る。どんなに賢い人でも人である以上それは変わらない、忘れたいことがあっても寝るのが一番だよ・・・・・・ってエメトセルクが言っていた」
 アゼムはうんうんと頷きながら最初はまるで自分がその発言者であるかのように話したが最後に付け加えた名前は彼も親しい友人の名だった。
「だから君も朝食を食べたら寝るといいよ。仕事は昼過ぎからでも間に合うさ」
 今日は定例会議だってないのだ、と両手を伸ばして笑った。笑顔が似合う人、というのはこういう人のことを言うのだろう。
 どんな困難なことでも前向きに挫折することなく、どんなことでも納得するまで解決することを座右の銘にしているような座だ、アゼムという座は。
 あと少し自由奔放すぎるところがたまに傷、といったところだろうか。
「そういえば」と、アゼムがふいにファダニエルを見上げた。
「なんだろうか」
 急にずいっとまた近づいた顔に暗い灰みの緑の瞳が小さく丸くなる。
 アゼムは彼の後ろの髪を指さして、
「これは寝癖かい?」
 と、跳ねた一束の髪を見つめる。
 そう言われて自分の後ろの髪に触れてみると確かにアゼムの言うとおり、髪の毛がくるん、と流れに反して浮いたまま跳んでいる毛があった。
 ああ、とファダニエルは眉を下げて大きな大きなため息を吐いた。
 触れても触れてもその毛はまた跳ねてしまい収まってくれない。
「そう、だね。これは寝癖だ、まぎれもない寝癖だろう」
 なんだかさっきとは様子が違う声色でファダニエルは呟いてとても意気消沈してしまっている。
 寝癖、というものが彼の中では何かとても嫌なことなのだろうかとアゼムは首を傾げて口端を上げた。
「真面目そうな君でも寝癖を作るんだな」
「これは本当に、その、いつも直らないんだ。朝の支度をしてもいつの間にか跳ねている。そんなに寝相が悪いわけでもないのにいつもそうなんだ」
 そう言いながら何度も撫で付けてなんとかしようとしている姿がいつも笑うことはなく仕事を真面目にこなし、人とも接触をあまり好まないタイプの人だと思っていたその姿は今自分の前にいるファダニエルとは少し違っていてなんだか優しくて、人らしい、と思えた。
「寝癖を直すのが上手くいかないんだ」
 ファダニエルはもう一度ため息を付いてその寝癖とやらを直すことを諦める。
 アゼムは逆にその言葉を聞いて吹き出すように笑ったが決して馬鹿にしたわけではないのだ。誰だって苦手なもの、嫌いなもの、好きなものがあるのだから彼だって同じ人ならばあって当然。
「よかった、君みたい真面目な人でも苦手なものあるんだね。まぁどっかの誰かさんも苦手なものなんてなさそうだけど」
 アゼムはそうはぐらかしたが誰のことを言っているかなんてすぐにわかってしまう。確かにファダニエルから見てもエメトセルクには苦手なものなどないように見える。
「それじゃあやっぱり今から俺と朝食を食べてからもう一眠りしたらその寝癖も直るかもしれないな」
 アゼムは冷たくなったファダニエルの腕を掴むと、行こうと誘う。お気に入りのカフェテリアがあるんだ、そこならもうこの時間に開いているよ、と歩き出しながら告げるとファダニエルは縺れた足でつられて歩き出す。
 このアゼムという男性は人にその一歩を踏み出せ、その天真爛漫な態度で相手を自分のペースに引き入れるのが上手いのだろう。
 誰でもいつも間にか彼の光が照らされて暗い場所を歩いていても見つけてくれるのだろう。
「ついでに君の好きなものも知りたいな」
 眩しい太陽が燦々と昇り始め街が起き始める。さっきまでの冷たい空気が温かさを増して大地をオレンジ色へ染めていく。
 朝がくる、とファダニエルは眩しそうに太陽を見上げた。
「アゼム」
 ファダニエルはアゼムの隣に並んで歩くと名を呼んだ。
 彼がしたいようにすればいい、ともう早朝から仕事に行くことは諦めた。
 そんな日もあっていいかもしれない。それにもっとアゼムと話していたいと、風にそよぐ髪を眺める。
「なんだい」
 そしてそれはほんと小さな興味だった。
 聞いてみたくて喉からその言葉が声という音色になって出ていくことを、止めたくなかった。
「好きなものを教えたら君の好きなものを教えてくれるかい?」
 それはほんの些細な興味、だった。
  

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