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​君のために走って

あれは脱兎の如くだ、とその姿を見て言われたことを思い出す。
 しかそれは一目散に逃げるというより一目散に飛びつく、と言った方がいいだろう。いつ帰ってくるかわからない旅人は突然としてやってくる。
 リュックいっぱいに『何か』を詰めて、ローブの端々をぼろぼろして今日もアーモロートの大きな玄関をくぐった。そんな彼の姿を見ると市民たちは、おかえりなさい、今回は長い旅路でしたね、と次から次へ言葉を投げる。
 彼はその人たちに手を振り返し、旅の話はまた今度に、と笑って返しリュックの紐を握り直すと駆け出した。
 今日はどこにいるだろうか、と考えながら石畳の道を行く。
 帰ってきたらまずは議事堂に行って報告をすること、と何度も言われていたが彼が帰ってきて一番最初にすることは決まっている。
 はっはっと息を切らして走っていると、角の街路樹のところでこちらに手を振っている人が見えた。
「やあやあアゼム!おかえり」
 ラベンダー色の髪をしたその長身の青年は走ってくる彼に親しみを込めて、おかえり、と優しく告げた。
「ただいま!ヒュトロダエウス!元気だった?」
「もちろんだよ、キミはまぁ深くは聞かないけど無茶してたみたいだね?」
 あちこち破けたローブと頭にどこから付けてきたのか葉っぱが付いている。リュックにも一体何を詰め込んで帰ってきのかと、ヒュトロダエウスは興味津々に輝く紫色の瞳を細めた。
 アゼムは口を開けて、そんなことないさ、と白い歯を見せて笑う。
「ところで」
「ああ、彼ならあっちでお話中だったよ」
 指を目的地に指すと、アゼムの纏う空気がぐんっと明るくなった気がした。
「ありがとう!また後で!」
 そう言ってヒュトロダエウスの肩を叩くとすぐに走り出して行った。ヒュトロダエウスは目が良い。アゼムが帰ってくるのが遠くから見えるといつもこうして迎えてくれた。
 一陣の風を残して駆けて行く姿を見ながらヒュトロダエウスはひらひらと手を振る。
 それはいつもの穏やかな光景だった。
 駆け出したアゼムはヒュトロダエウスの言われた方向に走り、途中で公園を抜けた。こっちの方が近道だ。たぶん彼がいるところは議事堂の前だ、それなら報告と一石二鳥だろうと草むらに身体を突っ込んでさらに走った。
 途中でアゼム様、と呼ばれた気がしたが気にしない。
 走って走って大きな建物が見えてくると、アゼムはその建物の前の広場で彼を見つけた。
「エメトセルク!」
 遠くからでも聞こえる大きな声で名前を呼んで、駆ける足を大股にしてまるで飛んでいくようにその人へ目掛けて手を広げる。
 さらに追い風が吹くと身体がなんだかふわりと舞った気がした。
 広場にいたのは目的の人、エメトセルクだ。彼は部下と何か書類を見ながら話をしていたようだったが、大きな声で名前を呼ばれたことに気が付いて顔を上げた。
 その顔はギョッ、と驚いた顔をして目を見開いて飛ぶように走ってくるアゼムを凝視する。突然現れた黒い影に覆われてエメトセルクは口をぽかんと開けたままになってしまった。
「エメトセルク!」
 アゼムが止まることを考慮しないそのままの勢いで走って行くとどうなるのかその場にいる誰もが瞬時に理解するだろう。
「アゼーッ」
 眼前から猛獣のように突進してきたアゼムはエメトセルクに飛び付いて、そのまま押し倒してしまった。固い地面に腰を打ち付け、さらに大荷物を背負った男に抱き付かれるのをこの一瞬で防げというのはいくら冥界に愛された座を持つエメトセルクでも無理だろう。
 ドスンと鈍い音がして二人は地面に転がりアゼムはエメトセルクに跨ったまま、
「ただいま、エメトセルク!」
 と瞳を爛々と輝かせて響かせた。
 しかしアゼムと違って突撃された挙句、押し倒され馬乗りにされたエメトセルクはただいまどころではない。
「アゼム!」
 エメトセルクは今にも沸騰しそうな声色で叫んでアゼムの胸倉を掴んだ。お互い衝撃で仮面が外れてしまっている。
「お前は加減というものを理解しろとあれだけ言っただろう!」
 眉尻を極限まで上げて睨みをきかせると、鼻息荒くそう声は大きく怒鳴っているわけではないが誰がどう聞いてもこれはまずい、という霹靂だ。こんな怒り方をされたら泣いてすみませんでした、で済まされるわけがない。
 だがアゼムと言えばそんなエメトセルクの怒りなど気にもしていない様子でニヤリ、と頬を上げる。そんな顔をエメトセルクは呆れるほどよく知っていた。
「なんだ、そんなに怒らなくてもいいだろ?やっと帰ってきたんだ、おかえりの一つぐらいあってもいいだろう?」
 エメトセルクに乗ったままアゼムは腕を組んで見下ろす。
「だ・か・ら!もっと違うやり方があるだろと私は言ってるんだ!」
 周りの人は狼狽しながら二人を心配そうに見ていたが、当の本人たちは目の前の自分たちしか見えていない。
「嬉しさを最大表現したつもりなんだけど、気に入らなかったか」
「そういう問題じゃない!さっさと退かないか!」
 エメトセルクは乱れた白い髪を撫でつけて、アゼムの胸板を手で押す。
 どこだろうがこのアゼムという男は天真爛漫とは言葉がいいだけで無秩序、と言った方が正しい。反省の色がない男に厭き厭きとして、エメトセルクは嘆息をする。
 ようやくエメトセルクに言われて仕方なく退くと、アゼムは彼に手を伸ばした。その手を見て深くため息を吐くと仕方なく握り返して起き上がる。
「ただいま、エメトセルク」
 三度目になる台詞を穏やかな風に乗せると、エメトセルクは金色の目を迷惑そうに細めたが口元は懲りない仕方のない奴だ、と諦めを含んだ笑みを浮かべていた。
 こいつに怒ったところで直らないだろうし改める気も更々ないに違いない。
 汚れたローブの胸元を拭うように手で払い、いつから付けていたのか頭に付いている葉っぱを取ってやる。
 そのまま焦げ茶色の髪を力いっぱいにくしゃくしゃにしてやると、やめろよ、とアゼムが手を払い退けた。その屈託のない笑顔を見るとああやっと帰ってきたのか、とエメトセルクは実感した。
 どうせまた無茶な旅でもしてきたのだろう。しかし彼は生きてまたここに帰ってきていることが一番大切で嬉しく安心できることだった。
「さっさと報告に行ってこい、話と説教はそれからだ」
 そう告げると最後の一言にアゼムの不貞腐れた鳴き声が聞こえたのは言うまでもない。

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