
サンダーソニア
それはまだ自分たちが大人になる前の話だ。
アーモロートの若者はとても勤勉で善き人たちばかりだった。誰もがその学校で学び、多くの知識を蓄えて大人になっていく。その者たちは星をもっとより良くするために切磋琢磨し、いつかは十四人委員会の座に就くことを夢見るだろう。
十四人委員会に入ろうと思ってもそんなに簡単にはいかない。
エーテルの操作術やイデアに関する知識、善と悪。そして品行方正であることも大事な一つだった。大抵その座は先代から推挙されて次代が決まることが多く、座の弟子や所縁のある者が受け継ぐことが多かった。
誰もが憧れる十四人委員会。その座の一つ、第十四の座であるアゼムはもうすでに候補者がいた。
それは突然現アゼムが他所から連れてきた少年だった。
もちろん、それは瞬く間に噂や憶測が飛び交い注目の的だ。まだ現役であるというのに、それに候補者だって他にもいるだろう。得体の知れない少年を連れ帰り、さらに学業までさせていれば一体この少年にどんな魅了があるのだろうかと皆が皆、少年を一目見ようとやってきている。
しかし本人はそれが迷惑なのか、授業をまともに受けようとしなかった。
人からの視線が御免だ、とケラケラ笑って窓の外へ飛び出して教授たちを困らせていた。
だからと言って試験はいつだって成績優秀だ。ぼーと外を眺めていて急に、
「この問題に答えよ!」
と、問題を出されても少年は席からすっくと背筋を伸ばして立ち上がり、流暢な声でさらさらとその質問に的確に答えていった。
こういう人を天才肌、と呼ぶのだろう。
くっきりとした眉毛、大きくて玉のような青い瞳はいつだって白い仮面で顔を半分隠していてもまっすぐと堂々と見据えていた。
時折、奇想天外な答えを出す時がある。
提示された事へ教科書通りの完璧に答えるのではなく、誰もが思い付かないことを答えとすると大人はあっけらかんする。
「可能性がゼロではないのなら、そうします」
少年はいたって真面目な声で、ニッと笑う。
可能性がゼロではないなら試しことが大事で、突拍子もないことが思い付くことはさすがアゼムの座の弟子だ、というでもいうところか。
現アゼムもよくそうした発言をして周りを困らしているらしい、と聞く。頭より先に身体が動くのが先な性格だ。だからと言って馬鹿というわけでもない。
類は友を呼ぶ、という言葉があるのを体現しているようだ。
少年はいつものように人の目を避けるように早足で駆け、校内の蔵書庫へと向かった。重たい扉を開けると眼前に飛び込んでくるのは、本、本、そして本。
何万と言う書に囲まれたその部屋はとても広く、古くなった紙の乾いた匂いが鼻を刺激した。
棚という棚にはいろんな分野の書物がぎっしりと詰まっており、手に取って欲しそうに不揃いに並んでいる。
静かなその部屋の天井は円球に吹き抜けてガラス窓がはまっていた。注ぐ光は淡く、歩くたびに舞う小さな誇りをキラキラとさせていた。
ここはいつだって静かでいい、と少年はいつもの特等席へと向かう。
だが今日は様子が違っていて彼は足を手前で止めた。
「やあハーデス」
彼の特等席である山積みになった本たちの横の席に、友人が一人長い脚を組んで座っていた。
ハーデス、と呼ばれた少年は彼よりも大人びていて肩まで伸びた白髪だ。前髪をすべて後ろに流し、透き通るような白い肌の額が露わになっている。
「珍しいね、君がここに座っているなんて」
授業は?と聞きながら隣の椅子を引いてどかりと座った。
彼と同じように脚を組むと靴先がハーデスの膝へと当たる。彼は何食わぬ顔でちらり、と少年を一瞥すると手元の本の文字を滑るように指で撫でた。
「私はもうとっくに課題を終わらしている」
「さすが優等生だな、君は」
「フン、お前の方が先に終わっていただろう。それなのに私より後に来るとはどこで寄り道をしたんだか」
ハーデスはなんだか不機嫌そうに金色の目を細め、肩を竦めた。
その言葉にもう一人の少年は、ああと天井を見上げながら言葉を選ぶのを迷った。
どうせ言えば怒られる。彼はいつだって自分に対して説教じみて怒るのだ。もう少し節度を持って行動しろ、頭がいいならもっと違うやり方があるだろう、いきなり距離を詰めるな、といつも眉間に皺を寄せている。
それでは大人になってからでもしわしわのままだぞ、とからかえば拳が飛んできた。
「なんだ、また何か巻き込まれたのか」
お前の周りはいつでも厄介事だらけだな、と嘲笑われる。
「悪かったな。俺はこれでも人気者らしいから逃げるのに一苦労さ」
ハーデスはそこでようやく彼を正面から捉えた。笑った目元と弧を描く口。けれどふとそこに陰る色に気が付かないわけはなかった。
彼はいつだってそうだ。虚勢と自信が同居している。
「ハーデス?」
ハーデスは本を閉じるとテーブルの上に置き、彼の手を取った。突然触れられたことに首を傾げたが、すぐにあっ、と声を出す。
黒いローブの袖をたくし上げると打ち身のような赤く腫れた傷が出来ていた。
「お前な」
ハーデスは重たく息を吐いて、静かに睨み上げる。
彼は誤解だよと言ってその手を振り解こうとしたがハーデスは離してくれなかった。
「違うんだよ、これは事故だ」
「こんな意図的な傷をどうやったら事故だと言えるんだ」
ハーデスの指がその腫れた箇所を撫でるとひりひりと痛くて思わず眉を顰める。
「本当なんだって」
蔵書庫であるため声は抑えめでひそひそ話だった。幸い周りに人はいない。
彼はここに来る前にしくしくと泣く声を聞いたらしい。気になってその部屋の扉を開ければ一人の少年が年長の生徒に囲まれていた。
何をしているのか、と聞けば彼らは答える義理はないと言ってこちらを見る。まぁそれは言わなくても見れば誰だってわかるだろう。
「それでまさかお前」
「痛い痛いってハーデス、そんなに強く掴まないでよ。そうだよ、さすがに見て見ぬふりはできないだろう?助けたさ、けどそいつら今度は俺に対してああだのこうだのと言い始めるから」
「殴ったのか」
「だからちゃんと最後まで聞いてくれる?俺の話」
いくら自分は標的になったからと言って暴力は振るわないよ、と不貞腐れる。
「俺が次のアゼムの座に相応しくないだの、成績が優秀だからって何をしても許されるなよ、とか言いたい放題さ。俺はインチキを使って優秀でもないし最初から望んでアゼム様に推挙されてるわけでもない。ああ、だからと言ってなりたくないわけじゃないさ」
アゼムの座である人の弟子であること、こうして学を蓄えさせてもらっていることへ最大限の感謝と敬意を示している。次代アゼムになることを理解し納得しているからここにやってきたのだ。
だがそれを気にいらない子らもいるのだろう。
ハーデスは歯ぎしりでもするように下唇と上唇をくっ付けた。
善き人々が多い中、少なからずどこかにさもしい争いをする奴がいる。しかしそれも話せばわかるし、大人になればそれもくだらない子供の嫉妬だと思うだろう。
誰だって他所から来た謎の少年が突然頭角を現わせば妬まない人もいる。そんなことを一々気にしたところで現実はひっくり返らないし、それに彼は自分でも認めるほどに優秀だ。
まぁ少し、いやだいぶおかしな性格はしているが。
それを妬むのは、自分は劣っているからと認めているようなもの。
くだらない、とハーデスは一蹴する。
「そいつらはどうした」
「大きな縄で縛って置いてきたさ。ヒュトロダエウスから借りっぱなしだったイデアが役に立ったよ」
どうしてそうなったか、なんてもういいだろ?と彼は白い仮面を外しながら言った。ふわりと焦げ茶色の髪が舞って四方に跳ねる。
その縄のイデアをどうしてお前が持っていると糾弾してやりたかったが、そこを堪えてハーデスはポケットから何かを取り出した。
「動くな、じっとしていろ」
そう言って、腫れた箇所にそれを張り付けた。小さな四角い薄い紙のようなものだった。それを貼るとひんやりと冷たくて気持ち良かった。
そのあと、ハーデスは手のひらを宛てて自分のエーテルを彼へ流し込んだ。
「君のエーテルはいつでも気持ちいいね」
「煩い、少しは黙ってろ」
深くは言わないがどうせこの傷は助けた時に出来た打撲か、それともその後にあったひと悶着に出来たものか。どうせ聞いたところで茶化されるのがオチだから聞かなかった。
どうしてそんな少年と自分はこうして一緒にいるのか、と問われると何故だろうか、としか返せない。
いつの間にか隣にいるようになった。というのが正解だ。
「君は優しいな、ハーデス」
彼は自分の腕を見下ろし、もう片方の腕で頬杖を付きながら零す。
こんな傷、手当てなんてしなくても明日には治っているのにとも付け加えると、ハーデスから睨まれてしまい、ははっと苦笑いをした。
「ずっと君とこうしていれたらいいのにな」
「私は厭だぞ、なんで大人になってもお前の面倒を見ねばならんのだ」
「ええ、いいじゃないか。そんなこと言ってさ、君だって同じだろ?」
くすくすと口元に手を持ってきて笑うと、ハーデスは終わったぞとぴしゃりと言い放ち、手を離した。
さっきまで赤かったそこはもう腫れが引いている。
「さすがハーデス、ありがとう」
「あまりフラフラして厄介なことに巻き込まれるなよ」
その忠告に彼は、はあーい、と心が籠ってるのかわからない曖昧な返事をする。
「けど俺は人を助けることをこれからもしていきたいな。うん、君がいれくれたら問題ない」
どんなことに巻き込まれても君を呼べば、君のところに行けば、君に頼れば助けてくれるだろ?と確信じみて声という文字に乗せてみると、ハーデスはまた眉間に皺を増やして首を振った。
「まったく、お前という奴は」
呆れるほどのお節介はきっと今後も治らないだろう。また傷を作ってやってきて、へらへらと笑う。
だが彼という人はそれでいいのだろうと、ハーデスはとても素直にそう思った。
